十数年前のある日。眼科医から帰宅してからも、自身が網膜色素変性症だということを母親には言えませんでした。
薬は飲むことになるけれど、大丈夫だよとだけ話、とりあえずメガネは作るからと、お茶を濁したのを覚えています。
その後の病状の進行が、本当に緩やかなものでしたので、このまま何事なく、悪い方向へ向かわなければよいのだけどな。
穏やかに蔵焦る日が長く続くことを願っていたこの時期、私にある出会いがありました。
互いに将来に思いを馳せ、この先の人生を共に生きていきたいと思わせる相手と出会い、そして、そんな彼女に対して自身が
網膜色素変性症であることを遂に告白できないまま結婚をしました。後ろめたい思いを抱えつつ、目の病気はあるけれども今は大したことはないんだ。とだけ告げるにとどまりました。
結婚して何年か経ったある頃、仕事をする上でも色々と不自由を感じ始めるようになり、同時に上司からも職務に対して叱責を受けることが 多くなってきました。
季節ごとのイベント、催事が絶えない職場で準備や設営、後片付けまでの一切を、限られた人数と時間でこなしていかなければならない
大きめの台車に載せた多量の荷物を運ぶ際は、端々が見えず、行き交う人や車、建物や陳列された商品へぶつけないかとひやひやしたり、
前年に使った道具資材がまだ使えるかの倉庫チェックでは、照明が暗いせいか、同僚に比べて時間が掛かり、作業が遅いと冷やかされたり、
そんな状況で、細かな道具工具の所在を探すのにも手間取り…神経をすり減らしたり…。 なかでも特に苦手だったのは、店頭でお客様へ配る為のプレゼントを、その場で1個1個、
小さなビニール製手提げ袋へ詰めて並べるといった作業でした。
ワゴンの上へ決められた数を整然と並べ勘定をする、ということが視野が狭いせいか、どうしてもうまくいかず
「もたもたしてるんじゃない!」
と現場責任者に怒鳴られることもありました。
以前から職場の方へは病気のことはそれとなく伝えていたのですが、小さな仕事場で
各人が多くの業務を抱え、余裕などない状況なのは承知していましたが、それにしてもやることなすこと全てが
咎められているような気がして、非常に辛い思いをしました。
繰り返される不自由な日々の中、職場の側にある駐車場の掃き掃除をしているときでした。
通りがかった上司から
「ここにもゴミが落ちてるじゃないか!見えないのかっ!?」
これはもう限界だと心が折れたような気持ちになったのでした。
そうしたことが日常になっていたある日のことです。
「私は、白杖を持つことにする。」
妻にそう宣言をしたのでした。
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