コラム3 │ ハッピーモニターオフィス

網膜色素変性症を自覚する時


そういえばあの頃には…?網膜色素変性症を自覚する時、そして病名の宣告

私が、網膜色素変性症だと意思から知らされたのは、三十代半ばを過ぎたころでした。
それまでは、自分の目が他の人と比べて特別に違うといった感覚はあまり無く、少し暗い場所が苦手という位で、自動車やオートバイの 運転も普通に言っておりました。 自宅ではよくTVゲームをして遊んでいたのですが、やたらと目が疲れることに悩み始め、 ある日初めてのメガネを作るために眼科医を受診したのでした。 それまで裸眼で生活ができていたので、視力そのものには不安は感じておりませんでした。ただ、乱視などを矯正するメガネがあれば 目の疲れも改善されるのでは?と自身では考えていました。

「そんな軽いものじゃないよ、あなたの眼は。」

医師はそう言って病名を告げ、私に自覚症状が無いかを尋ねました。

「足元が見えにくいとか夜が見えにくいとかない?」

色々と例を挙げられ、その中には確かに覚えのあることばかりでした。 ゴミ箱を蹴飛ばしてしまったり、小さな段差に気付かず踏み外したり、よそ見をしていたら道路標識に体ごとぶつかったり・・・。 その日、網膜色素変性症にかかるといったいどうなるかなどの具体的な説明は無く、不安な気持ちを残して帰宅したのを覚えています。
後日、自ら大阪に出向き大型書店大型書店で医学書を立ち読みしたものですが、私の例には当たらず、 医師によってはその場で詳細に 語って下さる場合もあるとは思います。 医学書には失明に至る可能性があることが記載されており、決して楽観視はできないと覚悟しました。 しかし、その覚悟は確信に変わり・・・次のページ「網膜色素変性症患者の視界」との図が まるで、幼児がクレヨンでが様に乱暴に書きなぐった夜空の絵のように見え 私のショックを更に大きくしたのでした。
後日、出来上がったメガネは自身の視力を矯正する分には大いに役立ち、目の疲れなどが大幅に緩和されたことで、 その当時、自身の中で妙な安心感が生まれたことも同時に覚えています。 このまま目を大切にし続ければ、と一喜一憂な日々だったと思い出します。

夜にあたりが見えにくくなったと自覚したのは、確か中学3年生位だったと思います。 日が暮れるまで球技大会の練習でサッカーをしていた時、視界の下半分位がおぼつかなくなるのを感じていました。
ですが、明るい場所であれば不安を覚えることがなく、成人後に自動車の免許をとって運転を始めてからも、 ヘッドライトを点けていれば夜間に困ることは、その頃にはありませんでした。 ただ、不思議だったのは、高速道路などを運転中に、私がとろうとする車間距離が、他の車はその間へどんどん割り込んでくることが ままあることで、それを今、考えてみるとその頃には無自覚にせよ既に自分の視界のマン化ああたりしか頼りにできなかったのだろうと思っています。

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